昭和42年9月6日 朝のご理解


御理解第26節 
信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば死ぬるにも連れがいろうが、みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。
と。大変難しい御理解だと思いますですね。信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。とね。信心に連れがいれば死ぬるにも連れがいろうが、みな、逃げておるぞ。と、日に日に生きるが信心なり。どこをどう頂きましても、御神意が分からない程にむずかいしですね。北野の例えば堤さんあたりがですね、今、毎朝こうやって6人も7人も多い時には、10人も連れを連れのうてお参りになる。これは、あの、信心に連れは、いらぬというけれども、やはり、どうですか、朝参り致しましょう。朝の御祈念にお参りしましょう。さあ、月例祭にお参りしましょうと、こう誘い合わせてお参りして来る。そういう様なことは、いらんとこう言うておられる様にも聞こえますけれども、決してそうじゃない、と思うですね。自分がおかげを受けたことを人へ実意丁寧に伝えていくのが、神へのお礼と仰しゃる位ですから、神様のお礼にでも、例え堤さんは、自分がおかげを受ける。まあ、自分位でも皆さんがおかげを受けて下さったら、心も楽になるだろう。また、おかげも頂くだろうと思うから、やはり、連れのうて参って見えなければおられぬのであってね。本当に信心に連れはいらんどころじゃなか、やっぱり信心に連れは必要だというふうに感じます。ただ、その連れがなからなけらば参らないということが、いけんのであります。ね、お参りしましょうか、いや、今日は、私は、都合が悪か。そんなら私もお参り止めようかとそういうのが、いけんと言うの である。ね、そういう時には、やはり、ひそかに、信心せよ。それこそ、お参りしてくる道すがらでもね、本当にその信心のことを思い、お神様のことを思い、自分の在り方のことを信心で思わせて頂いて来ると言った様なことは、これは、連れがあっては、出来ません。本当に自分がひそかに信心する様な信心からしか、私は、生まれないと思うのですよ。ね、なかなかむずかしいですね。この辺が、信心には、連れはいらんからと言うても連れは、つんぶろうてから自分だけ参ってくる。のが、良いと言うではないのです。そのへんは、いろいろひとつ工夫しなけらばならぬ。次には、信心に連れがいれば死ぬるにも連れがいっろうが、ということなんかは、これは、もう、大変な難しいことなんですね。やっぱあの死の道連れといったようなことを申しますがね、。自殺なんかする人、自分が一人死ぬのは、寂しい。だから、その人を道づれにまでする、連れて行くわけなんです。人間んて、そんな気持ちがあるのかもしれませんですね。昔は、偉い人が亡くなりますとその人のお気に入りの家来達が、みんな、その追い腹を切りましたり、また、一緒にそのいわば、死のお伴をするんですね。どっかあの、エジプトかどっかあっちの方に何かあったね、あれなんかもう、一族郎党とうもう、家来をそれこそ何百も一緒に亡くなってるわけですね。もう、その墓なんかでも、だから、実に豪華なもので、今時買おうとか作ろうと思っても作られない様な金銀財宝に至るまで、家具類一切もう本当に生活しておる、そのままがですね、お墓の中にあるんです。みんな、その家来がその主人が亡くなったために、その墓に一緒に死んでおると言った様なその掘り出されてからわかったんですね。そういう様なこと。なるほど恐ろしいことです。死ぬるまで、死ぬるにも連れがいろうがと、死ぬるにも連れがいるということになったら、これは、本当に大変なことですね。しかし、そういう時が確かに、あるんですよね。まあ、申しますように、死の道ずれ。いわゆる無理心中なんかするのがそれなんです。だから、ここんところに、死ぬるにも連れがいると、いろうがと、信心に連れがいると、その辺の結びつけというのが非常に難しいなてくるですね。しかも信心に連れがいれば死ぬるにも連れがいろうがと、皆、逃げておるぞ。と、皆逃げておるという。みな、逃げておる。みな、逃げてしまっておる。と、日に日に生きるが信心なり。ね、その辺になってまいりますっと信心のほんとに、その生き生きとした。ね、生きる用意。死ぬる用意より生きる用意をせよ。と、日に日に生きる。その日に日に生きて行くということ、そのことが、実は、信心なわけです。
 昨日、あるかたがお参りして見えて、ある方という。福岡の高橋さんのお母さん達が、必ず毎月昨日、参られる日にちを決めて久留米の寿司かつさんという大きなお寿司さんの女将とそれから、高橋さんのお母さんとそれから、縁についておられます柴田さんと高橋さんのお姉さんにあたられる方、三人で参って見えました。そして、私にお母さんが言われることが、「先生、この頃定利が、あのここにお参りする時には、今日は公用公用なんて言って参る。本当にあの人ばっかりは、もう、三福というお寿司屋をしておられ、銀定という支店も大きな店も持っておられる。あの人は、三福であの、食べさせてもらいよるとじゃろうか、合楽の金光様で食べさせてもらいよるとじゃろうかと言うてから、家々が冗談話を致します。と、こう言われる。ね、同じようなことを昨日私聞いた。村内の方なんですけれども、奥さんが毎日毎日お参りされる。ご主人がその奥様に言われる。「お前は、金光様からばし食べさせてもらうち思うちょるか。と、言われる。ね、金光様ばっかり参ってどうするか。食べていかんならん。仕事の方がお留守になるじゃないかと。まあ、いう意味でございましょう。それでも、まあ、こげなおかげを頂いたではないですか。先日もあなた、あなたが事故をおこしなさったばってん、こげなその大難は、無難でおかげ頂きなさったではないですか。と、言うたもんですから、よけいカッと頭さいにきなさったらしいですね。そのことのお詫びに参って見えましたですけれども、本当にあの、むずかしいですね。金光から、食べさせてもらっておる。金光様から、食べさせてもらっておるのか、お店で食べさてもらっておるのか、わからんごとこの頃熱心にお参りするとこう、言っております。そういう様な人たちの場合はです。もう、日に日に生きるが信心だとわかっておられる。からだとね。あれをもらわんならん、これをもらわんならんと言うのじゃない。もう、日に日に生きていくということそのことが、あなたの、おかげを頂かなければ生きることの出来ない。と言うことは、もう、生活とか何とか、言った様なものよりももっともっと深いものだ。日に日に生きるということですらばあなたの、おかげを頂かねば、生きていかれんのだ。と、それにも、かかわらず私共一家が、無事にこうやってお生かしのおかげを頂いていると、いうことが、ありがたいと言う様なことがだんだんわかって来られるから、もう、自分の用はないと、投げ打ってでも、神様のご用というたら、出て来られるといった様なことになってくる。ね、お商売が繁盛せんならんからお参りしてくる。と言うのじゃない。ね、これも、ご利益を頂かんならんから、お参りをして来るとじゃない。もう、日に日に生きるが信心という様なそこんところになってまいりますときに、信心が非常に生き生きとして参ります。ね、私は、今日は、その御理解26節のまあ、表面に出ておるところの解釈がこんなことではありますまいけれども、まあ、これは、私が感じます、その中から、そんなものを感じるんですけれども、この御神意というのは、どこにあるのだろうか。この御理解の本当の心のまあ、いっちょ向こうにあるのは、何だろうか。信心に連れはいらぬ。
私、今朝から御神前にやらせて頂きましたら、丁度、お芝居の1場面を頂くんですよね。それが、皆さん、ご覧になったことがあるでしょうか。あの塩原多助の愛馬の別れというその馬の顔をこう撫でてですね。その、今まで、可愛いがってきた馬と別れなければならない。もう、大変、まあ、お芝居で見れば愁嘆場であり、一番山、良かとこでしょう。ね、悲しいとこ。それで、私は、この今日頂いたことの意味がわからないもんですから、今、ここに座らせて頂いてから、神様にお願いをしてこれを開かして頂いたんです。開かして頂いたら、御理解26節を頂くんですよ。それで、私はですね。意味が、どういうふうにそれが、つながっておるのであろうか。塩原多助の愛馬の別れと御理解26節のこれとが、どういう様なところにそのつながりを持っておるのであろうか。ちょっとわかりませんですね。皆さんでも分かられないでしょう。けれどもこれを今繰り返し読ませて頂いているうちに感じるのです。信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。と、信心するのに、これが、あっては、邪魔になる。これが、あっては、信心がわからぬ。これが、あってはこういうものを連れておったんでは、お徳は、受けられない。というものが、お互いの心の中にあるということなんです。ね、馬のお知らせというのは、ここでは、非常に卑しい心と仰っしゃいます。馬のお知らせは、いわゆる、私共の心の中に卑しい心がある。いわゆる、汚い心がある。そういう例えば、んなら、自分の心の中にあっては、それを連れのうて信心をしたんでは、信心は、いつまでたってもわからん。私は、このことだと思うたんです。皆さんの心の中にです。それこそ、塩原多助じゃないけれども、その愛馬と別れる。汚いものと別れることが苦しい。悲しい。悲しいまでに、これでは、別れられないという様なものが、あるのではないでしょうか。自分のごたる根性じゃ、人から好かれん。自分の様な根性じゃ人から愛されない。自分の様な根性じゃ、神様にも愛されないことが、わかっておりながら、その根性を取り除ききらん。人間なかさけと自惚れないものはないと言われるのですから、もう、本当にあの人にあれがなかならと思うようなものでもせす、それを自分の特徴の様に思うておる人すらがある。ね、本当に、自分の内容というものを本気で見極めさせてもらって、ね、自分の心の中にある言わば、これが信心の連れにあったんではです。この連れだけは、私は、かなぐり捨てて来なければ、ここだけは、いっちょ改まらなければです。ね、おかげは受けられないというものが、私共の心の中には、ある。そういう連れが、信心には、いらぬ。ひとりひそかに信心せよ。そういうものを取り除いた後のその信心というのは、これは、また、そこは、改まっての信心をさせて頂いたものでなければわからない。ね、これをですね。私共でも、やっぱりそうでした。もう、ここがこうなって20年、終戦このかたですから、20年なら、20年というですから、まあ、30年余りはですね。その汚いものと、別れようともしなかった。んなら、また、たまには、別れようと思ったけれども、それをとったらです。それを取り除いたらです。人間は、生きていかれない様に思うておった。そげん別れがつらかった。
私は、お商売をしておりました。ね、お酒なら、お酒の商売を致します。あの時分に思うんですね。お酒に入れます水増し水のことを、泡と申します。ね、それをその調合とか、お酒を水で割ったりすることをけいこするのが、昔は、上げ酒屋の腕でした。ね、お水を割っても薄う飲めない。濃ゆう飲めれるような、いわゆる胡麻化すことをけいこすることがいわゆる上げ酒屋の当時の腕でした。考えてみるとですよ。本当に良いお酒をです。わざわざ水を入れて薄めてそれを今度は、良かつの様にして売っておった。ね、ちゅうめいと言う。なら、今で言うならば2級酒でしょうか。ね、2級酒を1級酒を1級酒にがたある様にして売ることが出来るのが、腕の様に思うておった。皆それをしなかったらあげ酒屋は、立たんとさえ思うておった。人間の我欲というものは、恐ろしい。ね、人が5円で売るなら5円50銭で売ることがおかげの様に思うておった。私、そうでした。本当にあの時分にですね、ここんところの信心がわかっておったなら、もうそれこそ、大変繁盛しとったと思いますね。ただ、愛嬌一つで2つ売れるも、口だけの態度だけでのサービスだけは、確かに誰にも負けにように出来たけれども、肝心要の商品をごまかしとる。人が10銭で売るものは、9銭で売れ。8銭で売れと教祖様は、教えておられる。にも、かかわらず、人が10銭儲かるところは、12銭儲かろうとして来た。よが、なるほど、目先には、儲かってきた。儲かってきたけれども、結局、こう、全部それをそれこそ泡にしてしまわなければならぬ様な結果になってきた。ね、水を酒で売るのですから。まあ、これは、極端なわたしのこれは、何十年の商売生活のまあ、いわば懴悔でございます。けど、そういう様なものがです。ね、そういう心がです。そういうものが、私のその当時の商売の中から、取り除こうとすることは、それは、もう、大変な至難なことでした。いわゆる出来なかったんです。もう、教えを今の様に頂いていなかった。ね、そこで、言うなら、ここで私が、その人の手本の様であるから、ね。今皆さん、ここでこうやって教えを頂かれるから自分の心の中にこれが、あったんでは、もう生活は出来ない。いや、これを取り除いたらもう、自分は、生きていかれないという様に、その杖を大事にしておる様なものがありはせんだろうか。と。ね、商売をすりゃ嘘を言う。それを駆け引きというと。嘘を言わんでも良かつをもう、嘘を言う。その駆け引き今でもその駆け引きが私は出て来る。もう、本当にあさましい限りである。人間の心の中に染み込んでおる。皆さん、時々私の駆け引きに、かかっとんなさる様なことが、あるかも知れん。ね、その都度に妙な本当に自分の頭を打ちぶる様な感じがする。何のためにこういうありがたい神様を頂いておってこげな駆け引きをせんならんかと自分で思うことがある。ね、商売人が、もう駆け引きを止めたらです。もう、いかにも立ち行かん。もう、いかにも損する。もう、店が、潰れる様に思うておる。これは間違いなのです。あの店は正直だと、例えば人が信用してもらえる信用こそが、商売人の言うなら財産なのであるのにです。信用されない様に信用されない様にあそこのおやじは、駆け引きが強い。なかなか利口者であるけども、とてもこうすることは出来んという様な見方しかしてもらえない。これではやはり本当にいわゆる日に日に生きるが信心なりと言った様な生き生きとしたものは、生まれてこない。ね、皆さんの心の中に、塩原多助の愛馬の別れの様にね。もう、別れにくいものが、あるんです。ね。その別れにくいものを一つ皆さんがそれを本気で一つ別れてです。一人ひそかに信心する様なところを味わいをです。皆さんが頂いて来られたら信心がいよいよ楽しゅうなってくる。みな、逃げておるぞ。と、ね。皆逃げておるぞ。と。ここんところがまたありがたいのです。ね。これは、今、私のただ今のご理解から言うと、今おかげが逃げておるぞということになるのです。その卑しいものを持っておるためにです。その汚いものを持っておるために、おかげがそこから漏れておるぞということになるのです。ね、自分が本当に幸福でないなら、ね。人間関係の上に経済の上に健康の上に幸福ないならばです。何かそういう不幸福にならなければならない元が、これには、あるのです。あれが、ああいうけん、不幸福ではない。これが、こういう事態になったから、不幸福ではない。ね。自分にそういう不幸福にならなければならない内容をいつも連れておるから、幸せになれないと悟らしてもらい、本気でその所を、その連れを外していくところのおかげを受けなければならん。ね、そこから、やはり、日に日に生きるが信心なり。と言った様なすばらしい、あれも、これも、かなぐり捨てて例えば今日は、お店の忙しい日であるにもかかわらず例えば今日は、お店の忙しい日であるにもかかわらず、神様のことといったら、それをかなぐり捨てられるところの度胸が生まれてくる。信心が生まれてくる。そこに、日に生き生きとした神様を頂いていくことが出来る。日に日に生きることが、信心なりということになってくる。あの人は、お店で食べていきござるだろうか。金光様で食べていきがざるだろうか、ね。本当に神様のおかげを頂かねば食べてもゆかれん。神様のおかげを頂かねば立ちゆかんというところがわかってくるところにです。生き生きとした信心が頂けるですよね。今日は、このご理解26節のこれは、表面にこの言葉とか字に表れるところだけのことをまあ、一通り皆さんに聞いてもらった。そして今日初めて私が頂いたところ、これはもう、ご理解の裏の裏の言葉のところ、こんな理解付けと言うのは、まず、したこともなければ私共も聞いたこともないのです。ね、信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば死ぬるにも連れがいろうが、みな逃げておるぞ。
と、日に日に生きるが信心なり。と、そのことを、まあ、裏と表から頂いた様な感じでしたですね。今日のご理解は、一つそこんところを皆さん良く本気で自分の心の中のですね。いらん連れは、自分の心の中に持っておるとするならばです。そういうこれがあっては、これが受けられない。それこそおかげが逃げておる。みなが逃げておる。みな逃げておるぞ。と、仰っしゃる。おかげが逃げておる。それは、そういう連れを持っておるからだ。とわからせてもらって一つおかげを受けたいですね。どうぞ。